おすすめ書籍|鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
- ベルワンカイロプラクティックルーム
- 3月12日
- 読了時間: 4分
欧米では「Zenには二人のSuzukiがいる」と言われています。
一人は、鈴木大拙。思想としての禅を、西洋哲学や宗教思想との対話の中で紹介した人物です。
もう一人は、鈴木俊隆。本書では、実践としての禅、すなわち「ただ坐る」という営みを、アメリカの若者たちに伝えたと描かれています。
時代は1960年代、ベトナム戦争下のアメリカ。当時は、カウンターカルチャーの波が広がり、多くの若者が既存の価値観に疑問を抱いていました。
そうした空気の中で、禅は思想としてだけでなく、生き方として受け止められていったようです。
本書禅マインド ビギナーズ・マインドの中心にあるのは「初心」です。
修行の目的は、何か特別な境地に至ることではなく、この「初めての心」を保つことにあると本書は示します。
また、俊隆は次のようも語ります。
その言葉は、神秘的というより、きわめて日常的です。
でも、深く心に響きます。
あるとき、一人の青年が質問しました。
「海の向こうで戦争をしているのに、なぜここでみな集まっているのですか?」
俊隆は微笑んだ後、声を荒らげたといいます。
「愚か者。時間を無駄にしておる。夢を見ているのだ!何の夢を見ているのだ!?」
そしてこう続けたそうです。
「自分の靴の紐も結べないのに、なにをしようというのだ。」
あとになって、お弟子さんに「戦争中の日本の体験を思い出してな」と漏らしていたそうです。
その真意を断定することはできません。しかし、当時のアメリカには徴兵制があり、若者たちは現実に戦場へ送られるかもしれないという極限の不安の中にあったことが想像できます。
そんな状況で「ただ黙って座る(座禅)」ことに、彼らが焦りや矛盾を感じるのは当然のことかもしれません。
それでも俊隆は、「正義」という名の熱狂に対して慎重であったのかもしれません。
戦時中の日本では、「聖戦」という言葉のもとで、多くの宗教者が国家政策に協力した歴史があります。
「大義」や「正義」という語が人々を強く動員しうることを、俊隆は身近に見ていた世代です。その記憶が背景にあった可能性も考えられます。
たとえ「反戦」であっても、それが怒りや憎しみに基づくなら、心の構造としては対立を再生産してしまう側面もある──俊隆はその点を示唆していたとも読めます。
声を荒らげたのは反戦への拒絶ではなく、若者が観念に呑み込まれることへの警鐘だったのではないでしょうか。
スローガンは観念です。
しかし「靴の紐を結ぶ」ことは、疑いようのない現実です。
世界を語る前に、自分の足元を整える。
大きな物語に酔う前に、呼吸を整える。
俊隆が問うたのは、立場ではなく「姿勢」だったのだと私は思います。
俊隆は、こんな話もします。
普通、音は両手を打って生まれると考えます。
片手では鳴らないと。
しかし、実際は、片手が音なのです。
聞こえないかもしれませんが、音はあります。
両手を鳴らしても音はします。
しかし、両手を鳴らす前に音が無ければ、
音を立てる、ということができません。
音を立てる前に音があるのです。
だからこそ、音を立てることができる。
(中略)聞こうとしないでください。
聞こうとしなければ、音はあらゆるところで鳴っています。本書 116頁
わたしにはよくわかりません💦
もし、両手の音を、「右手が戦争、左手が平和」という両手のぶつかったときの響きだとするなら、片手の音とは何になるのでしょうか。
ひょっとしたら、立場が生まれる前の、根源的なところの。
対立が生まれる前の、まだ分かれていないところの。
やっぱり、よくわかりません…。
私たちは、まさに「今」、まさに「ここ」に存在していなければならない!
(中略)心と身体を、自己のものとしなければなりません。
(中略)あなたが、しかるべきとき、しかるべき方法で、ものごとを行えば、
ほかのすべてのものはきちんとなります。
あなたが「ボス」なのです。
ボスが寝てしまえば、ほかのものも寝てしまいます。
ボスが正しいことを行えば、誰もが正しいことを、正しいときに行うのです。
本書 42‐43頁
本書は、その地点に坐ることを勧めているように思えます。
『禅マインド ビギナーズ・マインド』
著者 鈴木俊隆、 訳者 松永太郎
サンガ2012年7月1日

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